自分の人生を生きるとは何か/ファイト・クラブ

こんにちは。今日は『ファイト・クラブ』を観た話です。前から人に勧められていた作品だったので観ました。感想には相当個人差が出るだろうとは思いましたが、私の心には鋭いパンチを叩き込まれたような衝撃と、その後にどろりと伝わる血の脈動を感じるような作品でした。

あらすじ

自動車のリコール調査員として退屈な日々を過ごす「僕」。ブランド品を着こなし、高級家具に囲まれて過ごす彼は完璧に見えたが、不眠症という悩みを抱えていた。彼は不眠症の苦しみをごまかすためにがんなどの重病の患者の自助グループに潜りこむようになる。自分より悲惨な者たちの告白を聞くと不思議とよく眠れるのであった。

かりそめの安寧を得た「僕」だったが、それは脆くも崩れ去る。自分と同様のモグリの女マーラが自助グループに参加するようになったからだ。彼女の出現により「僕」は再び眠れなくなった。

そんな折、彼は出張中にタイラー・ダーテンという石鹸行商人と出会う。タイラーは不思議な人物だった。「僕」とはまるで正反対で粗野な性格のくせに妙に気が合った。「僕」は出張中に出会う人々は皆その場限りの関係だと割り切っていたが、この妙な男の事はなぜか頭に残っていた。

ある日、「僕」は爆発事故で家を失ってしまう。買いそろえた高価な家具も、ブランド品の衣服も、何もかもを失った。困り果てた彼はタイラーに助けを求めた。タイラーは「僕」を助けることを快諾するが、バーの駐車場で「僕」にある頼みをする。

「力いっぱい、俺を殴れ」

「僕」は困惑するものの、タイラーと殴り合う。「僕」は殴り合いの痛みから退屈な日常では感じられなかった、生きている実感を取り戻すのであった。

定期的に行われる2人の殴り合いに見ていた酔っ払いが加わり、やがて大勢の男たちが加わるようになった。こうして「ファイト」を楽しむ秘密結社「ファイト・クラブ」が結成された。

ムダ=罪という現代社会の病

人は何のために生きているのか。「勉強をして、いい学校へ行き、いい会社に入り、いいお嫁さん(旦那さん)と結婚し、いい家を持ち、立派な子どもを育て、人から尊敬される」という資本主義社会のユメは人々の希望であったはずなのに。いつしかそれは腐敗し人を束縛する呪いへと変化した。そこから外れようとする者を糾弾し、排除する集団ヒステリーになってしまった。「僕」は強迫観念に駆られるようにしてブランド品を買い集める。「これが幸せなのだ」と自分に言い聞かせるようにして。

「正しい」道を歩んでいるはずなのに満たされない「僕」をタイラーは「物に支配されている」と嘲笑するのであった。他人の作った価値観に振り回されて要りもしない車や服を買って、満たされた気になって安心しているだけ。心の声に耳を傾けずに偽りの人生を生き、ライフスタイルの奴隷になっていると物質社会と人間の矛盾を指摘する。

「生きている」実感

自分が何のために生きているのかわからない「僕」は自分より遥かに弱い立場の病人を見て、相対的に自分が生きていると再確認する。大昔なら流行り病や戦争で人死はよくあることだっただろう。しかし、現代の先進国では大半の人は死の恐怖など感じずに暮らしていける。死なないことが当たり前になった社会では生きている実感など湧かなくても当然なのかもしれない。どこか他人事のように感じてしまう人生を、殴られる痛みが現実に引き戻してくれる。確かにここに自分は存在し、心臓を鼓動させ、血液を循環させているという事実を再確認させてくれるのだ。『ファイト・クラブ』における殴り合うという行為の本質は自己破壊であって、他者を傷つけることに置かれていないということがわかるだろう。

イドの暴走

「僕」の抱える内なる衝動を象徴するタイラーは自己を縛り付けている「僕」にとって魅力的な存在だった。しかし、『ファイト・クラブ』は衝動的なだけの人生を肯定しているわけではない。しっかりイド(内なる衝動)に身をゆだねた者の末路を示している。エゴ(自我)は解き放たれようとするイドをコントロールしなければならない。また、それはコントロールできるはずなのだ。人間は本能的に攻撃性を持つものであり、それ自体を否定し、心に鎖をかけようとすれば「僕」のように心が裂かれる痛みに苦しむことになるのだろう。必要なのはきっとコントロールの方なのだが、世間は常により刺激的でわかりやすい結果を求める。そこにどうにもならない人の世の生きづらさを感じてしまうわけだ。

 

この映画はなかなか推しにくい部分もあるものの、観る価値のある作品と感じました。観た人にはわかるかと思いますが、最後の最後には衝動と自己はわかり合うことができ、自己認識の壁を乗り越えることができるという積極的なメッセージが残されていると思いました。